小説と独り言

趣味で書いているオリジナルキャラの小説と、なんか愚痴ってます

彼の記憶

目が覚めた時には何処だかわからない天井を見つめていた。
窓から入る風が白いカーテンを靡かせ、薬品混じりの匂いのする部屋を涼しくする。
今の季節が春なのか秋なのか、冬なのか夏なのかはわからないけど、とにかく寝ていたであろう僕の汗ばんだ身体を心地よく包み込む。
どうして自分がこんなところで寝ていたのか記憶を整理しようにも、肝心な昨日の記憶がどこにも無い。
おかしいと思うはずの頭も、何故か片隅で「自業自得だ」と叫んでいる。
どうして自分の記憶がない事を当たり前の様に思えるだろう。
自分の名前、親の顔、知り合い、友人、住んでいる場所、故郷、何一つさっぱり覚えていない。
少し顔を横に向かせればこの部屋と同じ白い、小さな棚を見つけた。
その上には多分僕の荷物であろう物が置いてある。
きっとその中に自分の事へのヒントがあるのではないかと思ったから、茶色いショルダーバッグのチャックを開けた。

「伊東 奏」

それが自分の名前だった。



どうやら自分は倒れていた所を通報され、病院に保護されたらしい。
どうしてだか殴られていた、という事だ。
自分の記憶が全てすっぽ抜けているという事を話せばこの病院の医院長は「一時的な物、日が経てば段々と思い出してくる、安心しなさい」と言って別段何事もなく、退院した。
あまりに物事がスムーズに動くから思い出す余裕すらなかった。
退院した後にショルダーバッグに入っていた手帳に書いてある住所やら場所やら色んな所を回った。
結果、何も思い出せない。
医院長の言っていた事は嘘だったではないか。なるほど、それじゃあ気長に待とうと思っていた純粋な見解を持った自分が恥ずかしいではないか。
どうしようかな、ベンチに座って何もせずに考え込んだ。
実は医院長に行っていなかった事がある。
これ、言っていいのかわからなくて、少し怖くなって言わなかった事。
言ってしまえば全てが終わってしまう様な気がして、黙り込んでいたこと。

記憶がないはずの自分の中に、とある文豪の記憶があった。

彼の名前は太宰治
病院の人に聞けばもういないが有名な文豪だったという。
その人の記憶がどうして何もないはずの自分の中にあるのか、疑問だった。
自分の事について色々調べる必要があるのかもしれない。
そう思って手帳を開いた時に、ひらり、と何か紙のような物が落ちた。
それは写真だった。
誰かわからない人が写っている。
でも本能が、「思い出しちゃいけない」と言い出した。
どうしてだか、胸の奥がキュッと、締め付けられる様に痛くなった。
ああ、きっと、記憶をなくす前に何かあったのかもしれない。
そう思うとぞっと怖くなった。
もし、記憶がないとわかれば、もし、彼と何あったのを知らずに会いに行ったら、もし、もし。

記憶がない、それは本当に恐ろしいものだった。
唯一の記憶もなんの頼りにもならない文豪の記憶だけ。
怖くて、恐ろしくて、不安で。
それでも、人に執着していないと恐ろしかった。
自分が自分で無くなりそうな恐怖からは逃れられないから、いろいろな人に執着した。
太宰治」と名前も変えて。
そうまでしても生きようと思ったのは、いつか記憶が元に戻って写真の人ともう一度再会できるかもしれない、というあてもない希望があったから。


まあ、その後すぐに出会ってしまうんだけどね。
運命、偶然、必然、これほど恐ろしいものはこの世に無いと、この私、伊東 奏はそう思う。